津波の語り部-「がんばっぺ」と思えたときのこと

津波の語り部-「がんばっぺ」と思えたときのこと

東日本大震災から3ヶ月くらいの間、「油断すると涙が出る」状態だった。

現実を受け止められるまで、そのくらいの時間がかかった、ということなのだと思う。

 

前に書いた通り、震災直後は灯油の入ったポリ缶やガスボンベの回収をした。

その後は仮設住宅のガスの配管工事をした。

潰れたガソリンスタンドの地下タンクに残っていたガソリン(水と混ざっていないきれいなガソリン)を手動のポンプで汲み上げ、地元の人たちに販売したりもした。被災地域には特にガソリンが入ってこない時期だったので、とても喜んでもらえた。

 

体力的にしんどいこともあったが、仕事があって精神的には救われた。

仕事に没頭することで、亡くなった後輩はじめ、失ったものを反芻思考してしまうのを止められた。

 

震災から3ヶ月以上が経過してようやく、「もしかして、精神的に一番きつい時期は終わったのかもしれない」と思えた。

 

それ以前は「辛いけど、それでも生きよう」と自分に言い聞かせていた。

だけど、気持ちに整理がつき始め、「今後も人生は続くよな」「どうせ生きるなら前向きに」なんて考えられるようになった。

「life goes on」「always look on the bright side of life」

初夏ごろには、そんな歌をよく口ずさんでいた。

 

 

県の大学のボランティアが旧田老総合事務所にネットができるコンピュータを設置してくれた。

仕事が終わるとそこに行き、県外にいる友人にメールを送ったり、被災地の日常をSNSで発信したりした。

「目の前には津波で潰れてしまった故郷があり、それを重機が片付けている。それが日常になってしまった」

そんな発信をよくしていた。

友人と連絡を取ったり、日常を共有したりすると、気持ちがまた楽になった。

 

「八戸から仙台までの三陸沿岸道路ができる」

「田老は国道45号線を山の方に動かし、道路自体も1mくらい嵩上げするらしい」

それを聞いたとき、家業のガソリンスタンドを再開することを諦めた。

正直、震災前から長くは続けられないとわかっていた。

 

それでも、目の前には潰れた街があり、生活環境がままならない人たちが沢山いた。

地下タンクを洗浄して、ガソリンが入っていたタンクにも、軽油が入っていたタンクにも灯油を入れた。

灯油だけの販売しかできないけど、続けられるまで続けようと思った。

 

「年取った人たちは落ち込んでしまって声もかけられない。お客さんは若いし、まだ元気そうに見えるから言える。がんばっぺす」

宮古から田老まで乗ったタクシーの運転手さんに、そう声をかけられたのを覚えている。

 

「がんばっぺす」って言葉が心から嬉しかった。

(続く)

 

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