津波の語り部ブログ-田老の堤防について-
「堤防は街を守れなかった。役に立たなかった」のか。
「あの堤防があったから、あれくらいの被害で済んだ」のか。
田老の堤防は今後どんな評価を受けるのだろう。
堤防を「万里の長城」と紹介されるとぞわっとする。
普段は作業着しか着ないお祖父さんが正装して出かけるのを見たときのような気分。
気恥ずかしくなる。
「地元の人は堤防のことを『万里の長城』なんて言わない」って田老の人が言うのはよく聞く。
身近にあるものをそんなに仰々しく呼ぶ必要がないのだと思う。
私が物心ついた頃、既に堤防はあった。
小学生のときは雪が降ると堤防でソリ遊びをした(かなり危なかったと思う)。
中学の部活ではよく堤防の上を走らされた。
カップル(アベック!) がときどき手をつないで歩いていた。
「あの家の息子と、あの家の娘さんが堤防の上で手をつないで歩いてたっけよ」って噂がすぐに田老中に広がる。
まぁ、手をつながなくて、二人で歩いていれば噂になる。
それくらい、「えんずい(窮屈な)」環境のなかに堤防はあった。
濃密なしがらみのなかに堤防はあった。
暮らしのなかに堤防はあった。
防浪提(堤防)を仰ぎ見よ 試練の津波幾度ぞ 乗り越えたてし我が郷土 父祖の偉業や跡継がん
って歌詞の校歌を持つ中学校を私は卒業した。
だけど、堤防を「仰ぎ見た」ことなどあったかな。
「明治の津波くらいの高さの津波が来れば、あの堤防を越える。やっぱり、地震の後は逃げねぇば駄目だ」
と、小さい頃に親から何回も聞かされた。
昭和の津波の後、高台移転ではなく、堤防を作ることを決めた関口松太郎さんのことは小学校で習った。関口さんの銅像は旧田老町役場の前にあって、いつも厳しい目を向けていた気がした。
「地震がきたら高いところに逃げろ」って言われている気がした。
人間は自然には勝てない。必ず負ける。だけど、何もしないわけにはいかない。
堤防は「津波常襲地」における住民の自然への抵抗手段だ。
津波から逃げる時間が少しでもできるように。僅かでも津波の到達点を下げられるように。一人でも多くの人の命が守られるように。
そんな、「必敗の覚悟で作った祈りの象徴」があの堤防だ(高山文彦『大津波を生きる』参照)。
なんて、書くと「おらぁ、そんな難しいことは分かんねぇ」って知り合いのおっちゃんの声が聞こえてくる気がするけれど。
震災後に14.7mもある新しい堤防ができた。「堤防があると海が見えない」どころか、向こう側の空間が全然見えない。
だけど、ハードとしては以前よりも堅牢なものができたのだろう。
街は以前よりも安全になったのだろう。
もちろん、基本は「大きな地震の後は高い所に逃げろ」であることは変わらない。
新しい堤防は田老の生活のなかに溶け込めるのだろうかってよく考える。
今でも、一人でよく堤防の上を歩く。
朝に歩くと朝日が気持ちよく、陽に照らされて田老の町がゆっくり明るくなるさまを見られる。
震災前の堤防がそうであったように、新しい堤防も住民の生活の一部になればいいなと思いながら歩く。
防浪提に抱かれて 磯の香りもいきいきと
って歌詞の校歌を持つ小学校を私は卒業した。
東日本大震災において、堤防は街を守れなかった。
でも、堤防がなかったらもっと多くの人命が奪われた。私も堤防に救われた一人だと考えている。
ずっと前から田老の歴史は津波とそこから立ち上がる人たちの歴史。
昭和の津波の後の田老において、堤防は生活の一部であり、祈りの象徴であり、田老のあり方そのものだ。
自然には勝てないという諦念と、それでも、ただでは負けないという矜持。
それは自然を「正しく怖がる」知恵なのではないかと思う。
なんて書くと、「おめさん、しゃべっことべぇりだな(お前、口だけ達者だな)」って、知り合いのおっちゃんの声が聞こえてくるけれど。
そんな田老のあり方を私は誇りに思っている。
つづく(次で最後です)