津波の語り部-震災から10目くらいまでのこと③-
小学生のころから彼を知っていたが、ちゃんと話をしたことはなかった。
ときどき給油に来てくれた。
どことなく気になる存在だった。
控えめで、いつも少し照れたように会釈をする人だった。
彼の遺体は私の自宅から近い場所で見つかった。
最後まで、街を守ろうとした形跡があった。
正直、彼の死はきつかった。
真面目に働き、地域活動にも参加していた彼が亡くなり、自分が生き残っていることを申し訳なく思った。
この時期はいろいろなことがあった。
「被災地を助けたくて東京から歩いてきました。何かできることはありますか?」
ボロボロの服を着た高齢の男性に話しかけられたこともある。
あの人はどうなったんだろう。その後、行き会うことはなかった。
「外国人の窃盗団が出たらしい」という噂があった。それも一度も行き会うことはなかった。
津波で流された自宅で使えそうな服を拾っていたら、「拾える物があるだけいいよね」って、同級生に声をかけられたこともあった。彼の家は田老の野原地区(たろう観光ホテルがあるところ)にあった。堤防が完全に破壊されて「引き潮で総てを持って行かれた場所」。土台から家を流されてしまった彼の言葉に何も言えなかった。
震災後の変わり果てた街の様子を見ながら、いつも一人で散歩していた知り合い。彼は突然、自ら命を絶った。
人は想像を超える出来事が起きると自分自身を制御できなくなる、こともあるのだろうか。
あの人は精神的にもふらふらと彷徨って、パタリと倒れてしまったのかなって思う。周囲が支えてあげないといけなかったのだろう。でも、皆、自分自身を保つことで精一杯だった。
地元の人達と「この先、どうしようか?」という会話をすることが多かった。
「またここで商売をやろうと思う」
「いや、もういいかな」
「若い人は街のことよりも、自分のことを考えた方がいい」
「田老はもう街ではなくなるな。集落かな」
そんな話をしたり、聴いたりした。
家族が行方不明になっていても、何事もないように地域活動を続ける人がいた。
自分の役割を果たそうという責任感なのか。
または、役割があることが救いになっていたのか。
凄く強い人間の一面をみた。
「津波は堤防二つは越えねぇ。もし来んでぇば、俺はそのまま死ぬぅ。逃げねぇ」って普段から言っていたあの人。彼は最後にどう思ったんだろうって考えたりした。
「堤防があったから、住民は過信して逃げなかった」。
確かに、そういう人もいた。
でも、人それぞれの考えや思いがあり、亡くなり方があった。
大叔父のように街とともに自ら逝った人もいたが、多くの人は生きたかったと思う。
「田老では181人が亡くなりました」。
それは事実だけど、地元の人間にとってはどこかピンとこない。
合計した数字の前に、一人ひとりの人間のことをよく知っているから。
つづく