津波の語り部-私の話は以上です-
私が津波の語り部をするのは田老を遺すためです。
震災当時約4400人いた田老の人口は、この14年で約2千人減少しました。
今後、田老のコミュニティはさらに縮小します。
それでも、田老という場所を覚えている人がいれば、それは田老が遺ることではないかな?
って考えて活動しています。
「なぜ危険な場所に住み続けるの?違う場所に行けばいいのでは?」
って質問されたこともあります。
多くの住民にとってその理由は、ここには海があるから。
三陸の豊かな海に出れば生活の糧を得ることができるから。
30年に一度、津波がきたとしても。
海の「恵みは長く、禍は短い」。
恵は日常。禍は非日常です。
個人レベルで言えば、田老に生まれてしまったから。
目の前で故郷が津波にのまれるのを見てしまったから。
街を守ろうとした後輩が亡くなって、自分は生き残ってしまったから。
地元のために私もできることをやらないといけないって思ってしまったから。
そう、この「やらないといけない」っていうことについて。
自分の意思を持って生きていく上で、Will(やりたいこと・意志)Can(できること・能力)Must(やらないといけないこと・使命)の三つが大切って聞いたことないですかね?
この3つのうち、震災は多くの人にMustを提示したって思います。
生きなければ。
乗り越えなければ。
地元のために頑張らなければ。
亡くなった人の分まで生きなければ。
強烈なMustは使命感となり、私たちを突き動かしました。
だけど、長期的にはWillやCanとバランスを取る工夫が必要と思っています。
「将来は故郷に戻ってきて私が復興を担います」と言う高校生が震災直後は多くいました。
「「故郷のために」と「自分の幸せ」が重なり合うかどうか、よく考えたらいい」と言ってきました。
MustとWillを取り違えないで欲しかった。若者らしくCanを拡張する努力もして欲しかった。
傷ついた大人たちはどうしても下の世代に希望を見出そうとするのだと思います。
それは、しょうがない。
だけど、若者には自分の人生は自分で決めて欲しいです。
「知らないうちに大人の期待を背負う「ヤングケアラー」にならないでよ」と言いたい。
「あなたはどう生きる?」っていう問いには我儘に答えて正解なのだと思います。
震災から10年以上経って、「被災地」を出て、新しい人生を生きる人が増えているように感じます。
もし、それがWillに従った決断をしているのなら、それも一つの復興の証と私は捉えています。
もちろん、「やっぱり故郷で生きる」と決断したのなら、それも嬉しく思います。
復興工事もほぼ終わり、あとは災害資料伝承館のオープン(2025年6月予定)を待つばかりでしょうか。
田老の街は、総合事務所や郵便局がある「行政エリア」、道の駅を中心とした「商業エリア」、三王団地の「住居エリア」の三つに分かれました。
そして、高い堤防により街と海は分断されました。
どうやってこれらを有機的につなげていくか?それがまちづくりの中心的な課題です。
災害資料伝承館(行政エリア)と道の駅や堤防(商業エリア)を往来する観光客が増えるなら、よい方へ向かうのではないかな、そうなって欲しいなって思っています。
一つだけ覚えておいてください。
「脱いだ靴を揃えて置く」。
何かあったときにすぐに逃げられるように。
できれば、靴を置くときに少しだけ今日の話も思い出して欲しいです。
「もしかしたら、今日、何かあるかもしれない」って。
それくらい日常に防災があるのがいいのだと思います。
さてさて、長い時間、語り部を聴いて(読んで)くれてありがとうございました。
途中、重い話、耳を塞ぎたくなるような話もあったと思います。
私たちは震災で辛い思いをしました。ですが、それでも、できるだけ今日も前向きに生きています。
ですので、私の話を聴いて少しでも「自分も頑張ろう」って思ってくれると嬉しいです。
悲しみに負けず、自然に感謝し、自分の生まれた場所に誇りを持って、大きな堤防とともに生きる人々がいる田老という場所が日本にあります。
皆様の心に少しでも田老が引っ掛かったことを願っています。
私の話は以上です。
ありがとうございました。