津波の語り部-震災から10日目くらいまでのこと②-
大叔父の遺体を確認するため、父親と一緒に遺体安置所に行った。
遺体安置所と言っても、地元の某体育館、私もよく知っている場所がそのような使われ方をしていただけなのだが。
悲しみと緊張でハラハラとしながら、ゆっくりとなかに入った。
遺体の腐食を防ぐため、低温に保たれている室内。
静まり返った空間。独特なにおい。
袋に入った遺体が数十体、等間隔で安置されていた。
係りの人に大叔父の遺体まで案内してもらった。
「お顔を見ますか?それほど損傷はないです」
そう聞かれ、「はい、お願いします」と答えた。
ファスナーを開けてもらった。
出てきたのは紛れもなく大叔父だった。
しゃがんで顔をよく見た。
顔に傷があり、口は開いていた。
何か言いたいことがあったかのような表情に思えた。
ゆっくりと手を合わせた。
大叔父は、地震の後に一度は安全な高台へ避難した。
だけど、そこで「俺はもういい」と告げ、一人で自宅に戻り津波で亡くなったらしい。
この亡くなり方をどう捉えればいいのか、今でもたまに考える。
人生の殆どの時間を過ごした大事な場所が失われるなら、俺も一緒に。と考えたのだろうか。
津波の後の生活を予期し、気力が続かないと思ったのだろうか。
「あぁ、疲れたな。家に帰ろう」。漠然とそう感じたのだろうか。
「震災の数日前から急にお酒を飲み始めた。もしかしたら、自分が亡くなることを分かっていたのかもしれない。助かることはできたので、悔しい気持ちはある。だけど、本人が望んでいたことなら、それはしょうがないことだと思う」
ご子息はそんなことを言っていた。
周りを悲しませた。
捜索が大変だった。
死ななくてもよかった。
すべてその通り。だけど、大叔父の決断を理解したいという気持ちはずっとある。
津波が来る前の田老は大叔父にとって自分の一部だったんだろうと思う。
大叔父がここまで思い入れのあった田老のことを自分は全然知らない。
自分の育った地域を知らない自分は恥ずかしい。
もっと自分の地元のことをちゃんと知ろう。
大叔父の死で私はそう思ったし、その思いが後々に地域活動をするモチベーションとなった。
震災から2週間くらいは悲しみと向き合った期間。
辛い報告はさらに続いた。
つづく。