2023年7月31日で(株)日々旅の代表を辞任します。

2023年7月31日で(株)日々旅の代表を辞任します。

【2023年7月31日で(株)日々旅の代表を辞任し、その後に地域を離れます】

 

日中と朝晩の気温差から体調を崩してしまいそうなこの頃、いかがお過ごしでしょうか。

加藤です。

代表を辞任することについて、周りに口頭では言ってきましたが、会社の媒体を通してちゃんと伝えていませんでした。

 

来年、本当に辞めるときはもっと硬い文章を出します。

今回は一つのブログ記事として、考えをまとめました。

東日本大震災の前から日々旅を作るまで、そして、これからについて。

 

6000字を超える長文になってしまいました。

 

 

【震災前まで自分の故郷が嫌だった】

 

東日本大震災を経験するまで、自分の故郷を否定的に捉えていた。

「早く宮古(田老)から出て行きたい」とばかり思っていた。

田老や宮古という場所にはどういう人がいて、それぞれがどんな思いを持って生きているのか、まったく見ていなかった。

 

高校卒業まで18年間宮古に住んでいたけれど、「この人とは分かり合える」って思える人に初めて会えたのは大学生になってから。

そういえば中学2年のとき、家庭訪問にきた担任の先生は「加藤君に友達はいるのですか?」って、それだけ聞いていったらしい。母親から聞かされた。

 

18歳から8年間地元を離れた。東京や京都に住み、26歳で宮古に帰ってきて30歳で震災を体験した。

30歳までの5年間も心の内を明かすことのできる人は地元に一人もいなかった。

そもそも私自身が地元で心を開く意思はなかった。

 

 

場所について考えるとき、思い出す文章がある。

『僕は土地柄がどうだから楽園だなんて話は信じない。そこに好きな人たちがいるところ、守るべき人がいてくれるところ、戦う相手のいるところ。それが楽園なのだと思う』(中島らも)。

 

これが本当なら、私の楽園ってどこだろう。

 

好きな人たち・守るべき人・戦う相手はどこにいるのだろう。

震災前まで、その三者とも地元にいないと思っていた。

 

今は好きな人・守るべき人はここにいる。

そう思えているだけでも我ながら凄い進歩だと思う。

 

しかしながら、戦う相手はここにはいない。

私が戦いたい相手がいる場所へ行こう。

 

なんて「それっぽい結論」で腹落ちできたら苦労はしていない。

そんな面倒くさい人間が東日本大震災を経験してしまった。

 

 

【腐れ価値下げ野郎としての懺悔】

 

震災を経験し、その後に地域活動をするなかで考え方が徐々に変わっていった。

 

一度は高い所に逃げたけど「俺はもういい」と言い残して自宅に戻り亡くなった大叔父。

水門のカギを握りしめたまま亡くなった後輩。

 

津波の語り部をするときにいつも話す、田老の二人の死。

自分が暮らしている場所に物凄い愛着を持った人間がいることに気が付いた。

 

二人の死が主なきっかけになり、地域の問題を考え始めた。

それまで私に見えていなかった問題を見ざるを得ない状況になった。

必死になって地域をどうにかしようと奔走する人間がいることに初めて気が付いた。

 

 

震災前の私は、地域で周囲から距離を取り、自分からは何もせずに他人を批判するだけの人間だった。

批判することで他人の価値を下げ、自分の小さなプライドを保とうとする「腐れ価値下げ野郎」だった。

 

震災後に自分の情けなさを痛感した。

私も地元のために何かしないといけないと思った。

 

また、急激に変化していく街の状況に危機感を持ち始めた。

 

多くの住民が地域からいなくなった。

それほど多くはないけれど、「新しい人たち」が地域に入ってきた。

 

この先、地域はどのくらい変わってしまうのか。

逆に、どこを変えてはいけないのか。

そういうことを決めていかないといけない。

その最終的な判断は地元の人間がしないといけない。

そんなことを考え始めた。

 

 

【地域活動から起業へと渦に巻き込まれた】

 

震災後、初めて地元で「仲間」ができた。

いい意味で「こんな人間が宮古にもいたのか」って思うことが多かった。

自分はつくづく地元のことを知らないと思った。今でも思っているけれど…。

 

その仲間の一人と男二人で「読書会」をやってみた。

そしたら、「それ面白いですね」と言ってくれる人も現れた。

フォロワーが集まり、宮古観光創生研究会ができた。

 

研究会で議論をすると結論はいつも同じだった。

「本当は勉強するだけでは不十分。誰かが宮古で行動を起こすべきだ」。

はじめは自分が行動を起こす人になるとは考えていなかった。

 

周りをみると。

「オーストラリアから帰ってきて震災ボランティアをしている若者」

「宮古で宿泊施設をやりたいと千葉県から移住してきた若者」

「全国のゲストハウスを泊まり歩いている宮古出身の若者」

がいた。

 

クラウドファンディングを通して支援してくださる多くの方々がいた。

 

なかなか決断のできない私の背中を押してくれる頭脳明晰なメンターに恵まれた。

事業計画を作った。

「地域にコミットできるのは5年」と考えた。

アクションプランも5年先までしか作成できなかった。

それでも私のコミットメントを喜んでくれる人がいた。

 

地域活動を始めたとき、「この地域はどうなるのだろう」または「もっと多くの人に田老の津波のことを伝えられたら」くらいしか考えていなかった自分が、地域のために動く人たちの渦の中にどんどん巻き込まれていった。

 

起業する半年前、偉い人たちの前でスピーチをした。

途中、しゃべりながら涙が出た。

引用する。

 

「年間約3000万人の外国人が日本を訪れる今日、かつて私が憧れた「国際舞台」はもはや何処かの遠い国だけに存在するのではありません。

 

東京で研鑽を積んだ若者が、海外で研鑽を積んだ若者が、志を果たすために胸を張って帰って来ることができる場所、自分の故郷をそういう場所にしたい。

この宮古を「国際舞台」にすることだってできる、と私は信じています。

 

私の故郷、宮古市田老地区は明治・昭和・平成と三度の津波に襲われ、壊滅的な被害を受け、

その度に立ち上がってきました。

私が何よりも伝えたいのは、この決してあきらめない心。

この心に賛同し、共感し、元気になってくれる人を世界中に増やしたい。

 

「復興工事が終わったら宮古はどうなってしまうんだ。人口が減って、いずれ消滅するんじゃないか?」。

ときどきそんなふうに不安になってしまう仲間達にも同じことを伝え続けます。

あきらめてたまるか、と。

 

異なる国籍や肌の色、宗教、価値観を持った人々が人生の大切な時間をこの場所で過ごす。

それを地元の人達が共に楽しむ。

 

そんな場面を一つでも多くこの宮古につくるために尽力することを約束します。

 

Let’s enjoy the change. There will be the bright light ahead of us.

 

ともに変化を楽しみましょう。一寸先は光。と私は信じます」

 

起業から3年以内に黒字化しよう。

それまでは自分は無報酬で頑張ろう。

やるしかない。

そう思った。

 

一年目、いきなり利益を出せた。

そして、その後すぐに様々な問題が噴出した。

 

見切り発車の起業だった。努力して帳尻を合わせないといけなかった。

日々旅を起業した年、祖父が亡くなり、私は家業の社長にもなった。

 

「ギャンブルみたいなことやらないで。うちの仕事もしないといけないのに」と家族から言われた。

帳尻を合わせる努力、未だにちゃんとできていない。

 

 

今はなんでもコロナのせいできるから楽だ。一定の共感や同情を得られる。

だけど、そこに甘えていたら前進はない。分かっている。

 

それでも「交流」を売り物にするゲストハウスで交流を止められるのは辛い。

「年間約3000万人の外国人」が日本を訪れていたのが信じられない状況になった。

夢見た国際舞台は遠い彼方へ行ってしまった。

諸手を上げて旅行者を地域に迎え入れることができなくなった。

 

起業から約三年半、その半分以上の期間はコロナ禍にあたる、ようになってしまった。

そして、今後どれだけ続くか分からない。

 

会社の売上を立てられず、自分が報酬をもらうことを諦めた。

日々旅はボランティア活動だと割り切った。

(私以外の役員・社員には報酬・給料を支給しています。ブラックではないですよ)

だから、私は日々旅を「仕事」ではなく「地域活動」と呼んでいる。

 

落ち込んだけど、どん底で自分の考えを整理することができた。

自分は日々旅を通して何をしたかったのか。

 

勿論、会社のビジョン「暮らしを誇りに」を達成したいという気持ちはある。

 

繰り返しになるが、地元に何かしたかった。

自分みたいな面倒くさい人間にも居場所がある、多様性のある地域を作りたかった。

 

 

【肯定すること】

 

だけど、根っこの部分にあるのは、「地域を肯定したいという思い」なのだと思う。

 

小さいころからずっと地元を否定してきた。

否定した先に広がる世界をずっと夢見てきた。

ここでは駄目。そう思っていた。

 

震災を経てようやく気が付いた。

 

自分が否定しまくってきたこの場所が自分を作っていた。

否定しまくってきた人たちに支えられて大学へ行くこともできていた。

 

自分の周りにあるものを否定することは自分自身を否定することにつながっていた。

 

 

多くの人が死ぬのを間近で体験した。

 

「腐れ価値下げ野郎」が生き残り、真面目に地域活動をしていた後輩が亡くなった。

彼の分も生きなければいけないと感じた。

 

最後まで水門のカギを握りしめていた彼はこの地域を守ろうとした。

この地域は生きるに値すると信じるしかない。

私も地域を肯定したいと思った。

 

日々旅は地域を肯定し楽しむための会社にしたい。

私にとってこれが日々旅をやる理由だ。

 

 

【「卒論」について】

 

この11年間、自分の生まれた場所と向き合ってきた。

「あそこであの人の遺体がみつかったな」「あっちでは彼が見つかったな」

そんな悲しい思い出いっぱいの場所で仕事を再開して、新しい田老が作られるのを見てきた。

 

 

結婚して家族ができた。

子どもがこんなに可愛くて、こんなに手がかかる存在なのだと知った。

 

多分、震災のない人生の3倍くらいの経験をしたと思う。

きつかった。

だけど、物凄い学びがあって、大事なことに気が付くことができた。

 

まだまだ地域でやらないといけないことはある。

偉い人達の前でしたスピーチの内容・約束の多くをまだ実現できていない。

 

私の本質的な問題もある。

「地域を楽しもう」と言いながら、私自身が楽しむことができない。

30年以上地元を見ていなかった人間がいきなり仲良くしようとするのは虫が良すぎる。

時間がかかること。一つ一つじっくりと取り組んでいくしかない。

 

一方で、「自分が最後まで責任を持ってビジョンを達成しなければ」と思わなくてもいいのでは?とも感じている。

私の周りの彼・彼女たちは私よりも何倍も地域を楽しんでいる。

私はゼロから一を作った。地域が震災から立ち上がろうとする過程で、僅かではあるけど役割を果たした。

正直、それだけで達成感はある。

 

私は自分の「勝手な使命感」を原動力に動いてきた。

今後はできるだけ「楽しさ」で組織を回しせる人間が主導した方がいい。

 

 

さてさて、ようやく言いたいことを言う。

 

2011年の1月、同級生の前で「もう一度、学問の道に戻りたい。地域を出る」と啖呵を切った。その2ヶ月後に東日本大震災が起こった。

「東日本大震災がなければ自分はここにはいなかった」と思う。

だけど、今後もこの地域にいてこの台詞を言い続けるオッサンでいるのは嫌だ。

それは、絶対に、嫌だ。

本当にやりたいことがあるなら、やるべきだ。そのために必死に戦うべきだ。

それをしないと、この先、晴れ晴れと笑えない。ご飯を美味しく食べられない。

 

 

地元を肯定する。

その上で、ここではない場所に行ってやりたいことがある。

戦いたいと思う人がいる。

子供たちに見せたい景色がある。

これらの気持ちもまた、あきらめてたまるか。

 

「震災で命を落とした彼の分まで生きた」なんて言えないけど。

 

起業から5年。震災から12年。それを一つの区切りにする。

 

 

地域の若い人たちに言い続けてきた言葉がある。

「あなたが幸せになるために地域を使えばいい。「地域のため」って言える人間は称賛されるけど、本当に「地域のため」はあなたの幸せにつながるのか。「地域のため」が腹落ちするかどうか、ちゃんと考えた方がいい」。

そっくりそのまま自分にも言い聞かせてきた。

 

勿論、事実として自分の故郷はこの場所。

ここは私にとってかけがえのない場所だ。

 

「他に行きたい場所があるという思い」と「かけがえのない故郷という事実」の両方を抱えて、あなたはどう生きていくのですか?

という問いが私の前にある。

 

日々旅の代表でいるのはあと一年半。

その間にこの問いに具体的に答える。

それが11年間続けてきた地域活動の「卒論」だと感じている。

 

 

【再び、日々旅】

 

代表を辞めるまでにやらないといけないこと。

自分の役割を「不要」にすること。

後継を決めること。

会社のオペレーションを作りこみ、引き継ぐこと。

きっと、もっともっとある。

 

地域活動を通して私が得たレピュテーションがあるのだとすれば、そんなものは全てこの場所に置いていく。

事実、頑張ったのは私だけではない。

私は種を撒いて、育てた。それを収穫するときがくるのなら、そのときに自分の姿はなくていい。他の場所で新しい種を撒いていたい。

それくらいカッコつけた方が今後の自分へのプレッシャーになる。

 

 

【アリーナからエコシステムへ】

 

日々旅は地域にある一つのアリーナ(舞台)だと思っている。

望めば誰でもアリーナに上がることはできる。

 

今後、「この地域で挑戦をする人」が多く現れるといいなと勝手な夢想をしている。

沢山のアリーナができれば嬉しい。

そして、挑戦する人や団体のエコシステム(生態系)ができればいいなと思う。

日々旅や一つ一つのアリーナはエコシステム(生態系)を構成する一部になればいい。

 

「アリーナからエコシステムへ」。

そして、私は地域の外からエコシステムを支援する役割を担いたい。

 

「風と土が混ざり合って風土ができる」なんてよく聞く。

私は結局、この場所で「風の人」にも「土の人」にもなれないけど、「外のものを運んでくる水」にならなれるのではないか。「水の人」になろう、という浅はかな希望を持っている。

とりあえず、肥沃な土壌を作るのは水の役割だ。

 

外に出てもこの地域とかかわりを持ち続けるために新しい関係を構築したい。

これについてはただいま絶賛模索中だ。

 

 

【地域を楽しみたい人を歓迎する】

 

私の祖先は田老で明治と昭和の津波を生き残った。

私は東日本大震災を生き延びた。

強運の持ち主の家系に生まれた。

津波を語り継ぐ役割を与えられた。

 

そして、今、周りにはとても素晴らしい仲間がいる。

震災がなければ、こんなことを誇りに思うこともなかった。

 

「行く行く詐欺」にならないように、ちゃんと辞めるし、ちゃんと出ていきます。

もう少しだけ、宮古にいる私にお付き合い願いたい。

 

「この地域を一緒に楽しみましょう。

この楽しみの輪のなかに入ってくれる人を心から歓迎します」

と最後まで言い続けようと思う。

「そういうあなたは楽しんでいないのでは?」

というツッコミには「その通りです!」と笑顔で返すことしかできないけれど。

 

それでも。

地域を楽しみたい人やアリーナに上がりたい人を私は心から歓迎する。

 

 

【灰になって甦る】

 

11度目の「3月11日」が終り、春がきた。

 

長くなってしまった。

衒学的にエモく、この自分語りの駄文を終わらせよう。

 

「君は、みずから自身の炎で、自身を焼こうとせざるを得なくなる。ひとたび灰になりおおせることなくして、どうして新たに甦ることができるというのか」。

ツァラツストラはこう言った。

 

あと少しの地域活動を通して私も完全に灰になる。

震災から新たに立ち上がろうとする地域にもう少しだけ主体的にかかわってみる。

 

そして、その後、甦った自分が「オールドルーキー」として新しい世界へ踏み出すことが楽しみで仕方がない。

そんな後ろ姿を見せたい人がこの場所にいることに感謝している。

 

 

(株)日々旅 代表取締役 加藤洋一郎

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