津波の語り部-震災の翌日のこと①-

津波の語り部-震災の翌日のこと①-

2011年3月12日。

早朝に旧田老総合事務所の前に立って、地元の人達と一緒に田老の街をみた。

「映画みたいだな」

「これ、片付けるだけで何年かかるんだろうな」

そんな会話をした。

(震災の後、田老の様子を見た人が「復興はまだまだ」って言うのをよく聞いてきた。その度に、この震災の翌日の会話を思い出す。「片付けるだけで何年もかかるんだろう」って途方にくれけど、実際はそこまで時間はかからなかった。工事関係者、自衛隊員、市の職員さん、消防団、地元の人たち。皆、協力して頑張った。そりゃ、「まだまだ」って言う気持ちも分かるし、有難いなと思うけれど、現場では多くの人が必死に動いて一つ一つ前に進めてきたのも事実ではある)

 

朝7時前には自衛隊が来てくれた。

外から助けに来てくれた人達を見た途端、急に感情が溢れてきて、泣きそうになった。

「助けて下さい。街がこんなになってしまったんです」

そう言ってすがりつきたい気持ちになった。

 

その後、救援物資を運ぶのを手伝った。

自宅は確認することもできない状態だったが、家族は無事だったので、とりあえずは冷静でいられる精神的余裕があった。

 

物資の運び込みも終わり、線路を歩いて、三鉄田老駅の方に行ってみた。

(線路は凹っとしている箇所があるため、ライトを持たずにトンネルの中を歩くのは大変だったなぁ)

 

途中、人を乗せた担架を運んでいる自衛隊員達とすれ違った。

担架の上には白髪のお婆さん(髪の長いお爺さんかも知れないが)、顔には布が掛けられていた。

すれ違った後、振り向いて手を合わせた。

 

少し歩いた所でご近所さんに会った。

「生きてたんですね!!」

思わす声が出た。

「家にいて逃げなかった」って他の人から聞いていたから、亡くなったと思っていた。

「家にいました。家は流されはしたけど、新しかったから丈夫で壊れませんでした。家族は皆助かりました」

たしか、そんなことを言っていた。

「そりゃ、新しい家はもったいないけど、命が助かって何よりです」

そう声をかけたはずだ。

 

その後も線路の上でいろいろな人に会った。

「生きてたんだね」

「凄いのがきたがね」

「落ち着いたら、いろいろ復旧作業とか助けっぺぇす」

「あの人知ってる?津波の後、姿が見えねぇんだども」

「あそこに住んでた人、亡くなったずぅぞ」

そんな話を沢山した。

泣きながら話す人もいたけど、比較的冷静な人が多かった。

皆さん、いつか、こういうことがあるって心のどこかにあったんだと思う。

 

私も小さいころから田老のお爺さん、お婆さんから何度も聞かされてきた。

「いづかは分からないけど、津波は必ず来るんだ」

 

三鉄田老駅の近くから道路に降りて、母方の祖母がいる神田地区(山の方)まで歩いて行ってみた。

 

つづく

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