津波の語り部-震災の翌日のこと②-
2011年3月12日、お昼頃。
さんりく鉄道の線路を田老駅近くで降り、神田地区へと向かった。
(震災直後、田老駅付近の線路上には黒板が置かれていた。そこに「みんなで頑張りましょう。伊達直人」っていうメッセージがあり、思わず携帯で写真を撮った。ランドセルを配る伊達直人(元々はタイガーマスク)さん、当時流行りましたよね)
大平から神田まで、流された家屋や車が堆積する神田川沿いを歩いた。
「あの中にはどのくらいのご遺体があるんだろう」。
そんな考えが浮かんでくるのも止められなかった。
頭上ではヘリコプターや飛行機がせわしなく飛んでいた。
宮古北高手前の橋の辺りまでは道路に泥があり、異臭がした。
途中、歩道に流れ着いた誰かの写真を拾い、持ち主が分からなかったので縁石の上に置いた。(その後も写真を拾う日々が続くことになるのだけれど、持ち主を判別できることは少なかった)。
神田地区に着き、祖母に挨拶をしたあとに集会所に行った。
そこでは地区の女性が集まり、ご飯を炊いておにぎりを作っていた。
「何も食べてないんでしょ?食べてって」と知り合いに声を掛けられ、遠慮なくおにぎりを一つ食べた。
約一日ぶりの食事。
「有難い」。
その一言に尽きる思いだった。
その後、偶然に居合わせた同級生達と小田代山荘から北高まで布団を運ぶのを手伝った。
覚えているのは、小田代山荘の受付にカップラーメンがあったこと。
食べたかったけど「食べたい」って言えなかった。
手伝いがひと段落したとき、友人のお母さんに話しかけられた。
「(避難所になっている)お寺に戻るなら、このおにぎりを持って行って」
沢山のおにぎりの入ったリュックを背負い、きた道を引き返した。
旧田老総合事務所まで戻り、役所の職員と相談し、誰に何個のおにぎりを配るかを決めた。
お墓の辺りで休んでいた人達に一人ひとり手渡しで配った。
感謝をする人。
遠慮をする人。
もっと欲しいとごねる人。
人間の美しさや欲深さはその後にも沢山見ることになるのだけれど、最初は少し戸惑った。
当たり前だが、災害時は普段とは違う他人の一面を見ることになる。
大体、自分だって発狂してしまいかねない状況だった。
「人を判断することはできない。その人がどういう人なのか、最終的な結論はいつも保留にせよ」
震災の教訓の一つになった。
津波で家を流された私達を心配して、田老の山の方に住んでいた叔母が声を掛けてくれた。
結局、震災の翌日から10日間、叔母の家にお世話になった。
3月12日の夜、停電で冷蔵庫が使えないため、腐らせてはいけないと冷凍の魚などを皆で食べた。
避難所にいる人達には申し訳ないと思いながら、ぬるい缶ビールを飲んだ。
気分は晴れることはなかったが、少しずつでも日常を取り戻すように頑張ろうって思えた瞬間だった。
つづく