津波の語り部-震災から10日目くらいまでのこと①-

津波の語り部-震災から10日目くらいまでのこと①-

震災の翌日から10日間、従姉妹の家で寝泊まりし、そこから自宅とお店(ガソリンスタンド)のあった田老の中心部へ歩いて通った。

 

とりあえずの私の仕事は津波で流されたガスボンベと灯油缶を回収して一か所にまとめること。

空いた時間には潰れた自宅に行き、使えそうな私物を回収した。

自宅は破壊されて2階が数メートル流されていたが、服やタオルなどは「洗えば使える状態」のものが多かった。

 

役割があったとはいえ、基本的には自衛隊や工事関係者の方々の仕事を見守る時間が長かった。

潰れた家を重機が丁寧に掻き出していく。

そこに生存者(または遺体)がいないかどうか、目を凝らして見る。

精神をすり減らす時間だった。

次の一手が遺体に行きつくかもしれない、緊張の連続。

 

ガスボンベや灯油缶が見つかれば、私が出て行って回収。

もちろん、遺体が見つかれば警察を呼ぶ。

 

歩き煙草をしている人を見つけると注意をして消してもらうこともした。

ガスが漏れている場所があり、引火して爆発する危険があったから。

煙草を吸う外国人ジャーナリストがいて英語で注意をしたら、そのまま英語での取材になった。

その経験が発端になって全国通訳案内士を取得することを考え始めた。

数年後に「インバウンドブーム」が訪れることになるとは思ってもいなかった。

しかしながら、「防波堤を英語で何というか知らない」ことに、そのとき初めて気が付いた。

それまで、地元で英語をつかうなんて全く考えたことがなかった。

 

夕方、帰ってから従姉妹の子ども(当時6歳)と一緒に遊んだ。

津波のことなどなかったようにゲームやサッカーに興じる彼との時間は束の間の癒しになった。

地域にはトラウマを抱えているように見える子どももいたが、多くの子どもは大人に比べてとても元気に見えた。

4月から田老の小学校に入学する予定だった彼は、結局、市外に引っ越した。

小学校から真剣にサッカーを始め、後にサッカーの強豪校に進学した。

震災により彼の人生は変わったけれど、新しい環境で逞しく育ってくれたと思う。

 

 

田老の中心部は少しずつ片付き、道路ができていった。

営んでいたガソリンスタンドも姿を現した。

コンクリート建ての事務所は潰れて傾き、灯油のタンクローリーの上には壊れた家屋の破片が覆いかぶさっていた。

 

潰れた事務所のなかに潜り込み、必死で泥を掻き出した。

どうしても店のレジを探し出したかった。

ようやく、私が見つけたとき、周囲から歓声が上がった。

数千円と小銭しか入ってなかったけれど、とても嬉しかった。

 

震災から5日目、さんりく鉄道で田老から宮古まで行けるようになった。

私たちのために無料で走らせてくれたことに感謝し、一人で宮古に行ってみた。

宮古も津波の爪痕があったが、田老とは別世界に思えた。

大型のドラッグストアの棚には菓子パンやカップラーメンがあった。

とりあえずは、世の中が回っていることを感じた。

そんなとき、行方不明だった大叔父の遺体が発見された。

 

つづく

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