田畑ヨシさんへよせて
幼少より折に触れて地元のおじいちゃん・おばあちゃん達から昭和の津波の話を聴いた。
小学校に来て全校生徒の前で話をするおじいちゃんもいた。夏休みの地区行事でおばあちゃんに津波の話をしてもらうこともあった。
なかでも一番印象深かったのは、田畑ヨシさん。
紙芝居を使って津波を伝える人。言動にも聡明さをまとっていた。この人は違う、と子供ながらに感じていた。
ヨシさんとは家も近く、うちのお客様でもあり、大人になってからもお話をする機会があった。
認知症になった私の祖父をみかけて「お祖父さんをうちに遊びに来させてもいいからね」と声をかけてくれたこともあった。
八幡平市の登山婚活イベントの新聞記事を持ってきて、「独身の人が多い宮古市も、こういうことをしないとね」と提案してくれたこともあった。当時80歳を超えていたと思う。若い人のことも気に掛けているのだな、と感慨深かった。
2013年、震災復興イベント「田老 鎮魂の祈り」の企画を検討していたとき、演目にヨシさんの『海嘯鎮魂の詩』の朗読を入れようと提案した。あの詩には、ふるさとの海の恐ろしさ・感謝・愛情が詰まっており、私たちが伝えたいことの核心があると考えたから。ヨシさんは岩手県にいなかったが、ご家族を通して連絡し、イベントの趣旨や詩の朗読を了承してくれた。
また、私たちのために新しい詩をつくってくれた。その嬉しいサプライズがあのイベントを特別なものにした。イベントに地域の魂が入ったと思った。
ヨシさんが亡くなってから4年半。
今の田老を見たら、ヨシさんは何と言うのだろう。
「おらぁ、こんなに高い堤防ができたんだがね」「だども、これでも安心はできないよ」「大きい地震がきたら高い所へ逃げないとダメだからね」なんて言うかな。
街の姿が変わっても、人が変わっても、「この場所がこの場所であるための変わらない精神」はある。それをできるだけ言語化し、先人の足跡を辿りながら修正し直していくこと。それを基に新しいものをつくっていくこと。求められるのはそういうことなのかなと感じる。
そして、変わらないものと新しいものの間で「ちゃんと引き裂かれる」こと。それが地域に対する誠実さなのだと思う。
なんて、真面目に考えてしまうけれど。
「お祖父さんは元気だ?」と話しかけてくれたヨシさんが望んでいたのは、畢竟、地域の人たちが元気で明るく過ごす姿だった。
ヨシさんの本、『おばあちゃんの紙しばい つなみ』の最後に震災当時の田老一中の生徒会長の言葉が引用されている。
「私たちは津波のことを忘れてもいけないし、津波のことを引きずってもいけません」。
震災を忘れることはない。
だけど、ちゃんと前は向く。できるだけ朗らかに、せっかくなら希望を持って。
ヨシさんもそれを望んでいるはずだ。
「田老 鎮魂の祈り」に寄せて、ヨシさんがつくってくれた詩を掲載します。
『故郷想出』
一
白い砂浜さざ波の
寄せては返し波の音
想い出すのは想い出すのは
真崎の丘の散歩道
二
港の灯台点る頃
沖に漁火輝きて
想い出すのは想い出すのは
三王閣のあの灯り
三
鷗飛び交う佐賀部島
出船入船観光船
想い出すのは想い出すのは
町が賑わう旅の客
四
防潮堤のあの壁画
緑の松にそよぐ風
想い出すのは想い出すのは
川面に泳ぐ鮭の群れ