津波の語り部-イントロダクション

津波の語り部-イントロダクション

多分、15年くらい前のこと。

家に置いてあった父親の名刺の裏に以下のような記述を見つけた。

 

田老という地名の由来

  1. 津波をかぶって田んぼが老いた
  2. 田老は多老。若者が津波で亡くなり、老人が残った
  3. アイヌ語で水を表す「トー」が訛ってタロウになった

 

読んだとき「へぇ。そうなんだ」くらいしか思わなかった。

それからしばらくして、田老で震災を経験し、自分が語り部になってこの地名の由来を繰り返し人前で話すことになるとは、想像もしなかった。

 

 

読んで分かる通り、田老の地名の由来はどれも津波・水に関係している。

「田老の歴史は津波と、そこから立ち上がる人々の軌跡」だ。

 

1611年の慶長三陸地震津波では田老村(当時)のほとんどが全滅したとの記述があるらしい。

1896年の明治三陸津波では人口2248人中83%に当たる1867人が死亡。

1933年の昭和三陸津波では死者・行方不明者は人口2773人中911人(32%)。

2011年の東日本大震災では死者・行方不明者は人口4434人中181人(4%)。

 

他でも話したけれど、私の祖先は明治と昭和の津波を生き延びた。

強運の家系に生まれ、私も東日本大震災を生き延びた。

津波について話すことは使命、と思ってやってきた(今は「そこまで背負う必要はない」と考えているけれど)。

 

 

東日本大震災の犠牲者について、「あの規模の津波で死者数がこれくらいなら田老の防災(堤防や避難など)は成功だ」というような意見も聞く。反対に「一人でも亡くなったら悲しい」という声もある。

 

個人の立場で判断が異なるのは当然。

学術的見地からの分析か、感情的な自然な反応か、による違いもある。

 

私は震災を経験した当事者なので、防災について、堤防の是非などについて、客観的判断はできない、と考えている。

 

ただ、もし堤防がなかったら「高台に逃げても助からなかった人」に私自身も含まれていた。または、より多くの死者を間近に見ることになった、とは実感している。

その意味で、堤防は命の恩人だ。「街を守る」ことはできなかったのかもしれないけれど(もっとも、そもそも堤防がなかったら、田老に住んでいなかったのかもしれない。そこまで考えると、きりがないのだが)。

 

 

田老の犠牲者181人や宮古市の犠牲者514人という数(これらの数字は変化する)はとても重いのだが、当事者としては、その数には様々な思いや感情が張り付いてしまう。

つまり、亡くなったのは、合計何名ではない。

私たちのよく知っている名前を持った一人ひとり、一緒に時間を過ごした一人ひとりの人間が亡くなった。

 

やはり、あれは想像を絶する喪失だった。

「それでも、生きる」。それだけの言葉を心から言えるようになるのに、しばらく時間がかかった。

 

今、「津波から立ち上がる人々の軌跡」へ、わずかでも貢献できればと思って地域活動をしている。

 

 

語り部をしていて、こういうことを言うと、

「そもそも、そんな危険な場所にどうして住むの?」

「引っ越せばいいじゃない?」

という反応が返ってくることもある。

 

震災直後はこの「素朴な疑問」にどう対処したらいいか途方に暮れることもあった。

「ここで生まれたから」とか、「豊かな海があるから」とか、そんな脊髄反射で出る言葉以外の自分も納得する答えってなかなか難しいと気付いた。

 

「なんで、俺はここにいるのだろう?」

それにはしばらく後で答えるとして、次回から私の経験した震災を記述していこうと思う。

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