津波の語り部‐発災から避難まで‐
2011年3月3日、午前6時過ぎ、昭和三陸大津波の日、地元の避難訓練に参加した。
早朝、訓練の防災無線が鳴るなか、旧田老総合事務所前の駐車場へ一人で歩いて行った。
かすかに覚えているのは二つ。
「寒いから早く帰りたい」と思ったこと。
「若い人(当時、私は30歳だった)が少ない。20・30代は壊滅的だ」と思ったこと。
あの日、避難訓練で顔を合わせた人達とは3月11日の後も再会できた。
2011年3月9日、午前11時45分、三陸沖を震源とする大きな地震(M7.2、宮古市は震度4)が起こった。
「避難訓練したばかり。やっぱり、災害には気を付けないといけない」と近くにいた人と話したと思う。
だけど、同時に「結局、津波は来ないじゃないか」と感じたはずだ。
2011年3月11日、午後2時46分。
従業員二人と母親と私の4人で、田老の事務所(加藤昇一商店)にいた。
大きな地震に驚いて外に出た。
灯油を積んだタンクローリーがぐらぐらと揺れていた。
「こんなに揺れている。すげぇな」
従業員と笑いながら見ていた。
表現は難しいが、べたっべたっとした粘着的な揺れ方だった。
自分達にとって幸運だったのは事務所が停電にならなかったこと。
地震の後もテレビで情報を取ることができた。
「予想される津波の高さは3m」
はじめはそう言っていた。
「3mなら逃げなくてもいいんじゃないかな。どうだろう」
呑気にそう思った。
「それでも逃げる準備はした方がいいかな。貴重品をバックにいれよう」
そう考えて母親と一緒に荷物をまとめた。
「予想される津波の高さは6m」
テレビから緊迫感が伝わってきた。
6mというのは、呑気な私達にも「有無を言わさぬ警告」と捉えさせるのに十分な高さだった。
ようやく避難することを決めた。
事務所に隣接した自宅へ携帯電話を取りに行った。
自室に行ったら本棚が倒れて、携帯がどこにあるか分からなかった。
買ったばかりのiPhone3GS、大事に自宅に置いていた。
「探そうかな。携帯がないとこれから友人と連絡を取れなくなるな」
そんな考えが一瞬、頭をよぎった。
「いや、ダメだ。諦めよう」
すぐに思い直した。
何も持たずに事務所に引き返し、従業員と母親と一緒に旧田老総合事務所へ向かった。
あのとき、携帯を諦めてすぐに逃げる判断をできたのはなぜか。
それは「教育されていたから」だ。
小さい頃から、何度も何度も聞かされた。
「田老という場所は津波が来るところだ」
「大きな地震がきたら一人で高い所へ逃げろ。何も持たなくていい」
「一度逃げたらしばらく戻るな」
地元のお年寄りから昭和の津波の話を聞く度に「またそれか」と思っていた。
「同じ話、暗い話でつまらない」と感じていた。
今なら分かる。
あれは必要な話だった。
「話を聞いている小学生は退屈そうだ」なんて、あのときのお年寄り達も分かっていたはずだ。
だけど。
「いくら退屈そうでも、「つまらない」と思っていたとしても。この場所に生きる限りは必ず伝えなければいけない」。
そう考えて津波のことを伝え続けたのだと思う。
私に逃げる判断をさせてくれたのは、そんな年寄り達の決意や気概だったと考えている。
逃げた先で何があったかは次回以降に書いていきます。